日刊ゲンダイ2012年11月29日 江戸東京 町歩き…由来は黄門の政治ポリシー<小石川後楽園>

【江戸東京 町歩き】
由来は黄門の政治ポリシー<小石川後楽園>
【話題】
日刊ゲンダイ2012年11月29日 掲載



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 冷たい雨の降る日に小石川後楽園を訪ねた。
 JR飯田橋駅から、傘を差して歩くこと10分。1629(寛永6)年、水戸藩初代藩主の徳川頼房が築き、2代目の徳川光圀が中国の明から亡命してきた朱舜水の意見を取り入れながら完成させた庭園にぶつかる。
 後楽園の名は、黄門さまが中国の政治家の「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という「岳陽楼記」から名づけたという。為政者のあるべき態度を示したもので、約2週間後の選挙に出る候補者に聞かせてやりたい。
 ここまでよく調べたように思えるが、入り口にあったパンフレットを抜き書きしただけだから少しも自慢にならない。ともかく、黄門さまの政治家としての力量は疑いようがない。印籠の後ろで笑っていただけではなさそうだ。
 広さは、約2万坪。ケヤキやモミジが今が盛りと赤や黄に色づいている。ただし、水戸藩の上屋敷は全部で13万坪あったとされるから、後楽園は単なる中庭程度でしかなかったのだ。
 園内は雨の降る平日とあって人影もまばら。真っ赤な葉っぱの絨毯(じゅうたん)をしばし独占できるのがうれしい。
 気分よく、次は小石川税務署裏の牛天神(北野神社)へ向かう。牛でもいるのかと思っていたが、ごく普通の菅原道真を祭った神社だ。源頼朝が奥州遠征に行く際、ちょっと休憩で腰掛けた石が牛に似ていたから、この名が付けられたという。
 さらに足を進めて、徳川家康の生母の於大の方が眠る伝通院へ。於大が再婚先で夫を亡くした後、髪をおろして「傳通院」と号したことからこの名が付いた。家康は、2歳でこの母と生き別れになったが、60歳を過ぎてもなお、慕い続けた。そんな彼のマザコンぶりは、男ならほとんど理解できる。
 ここはまた、浪士隊(後の新選組)が結成される際、近藤勇、土方歳三、沖田総司らがわらわら集まった場所でもある。彼ら若者たちの犠牲の上でつくられた維新という言葉も、あまり軽々しく使って欲しくない。
(廣)

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